マレー沖海戦(マレーおきかいせん)とは、太平洋戦争の初期の1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。
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日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない[1]」との常識をくつがえし、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に影響をあたえた。
背景
(以下日付、時刻は現地時刻)
彼我の情勢
太平洋戦争の開始日は1941年12月8日であるが、その直前の12月2日にイギリス海軍の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスと護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターからなるG部隊がシンガポールのセレター軍港に到着した。当初は新型空母のインドミタブルも加わる予定であったが、同艦はバミューダ島で座礁事故を起こして合流できなかった。12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた。(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英蘭豪への宣戦を布告したと報じた。)この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。
イギリス東洋艦隊(司令長官トーマス・フィリップス海軍大将)は、この日本軍マレー上陸部隊の輸送船団攻撃のため、Z部隊を編成して12月8日17時過ぎにシンガポールを出航した。
Z部隊兵力
戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ
巡洋戦艦:レパルス
駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、テネドス、ヴァンパイア(この艦はオーストラリア籍)
この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかったが、チャーチル首相はZ部隊を快速の遊撃部隊として活用することを主張した。フィリップス提督は、空軍の航空支援には期待できないことを知っていたが、日本軍の空襲による危険は大きくないと判断していた。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。
一方、日本海軍の戦力としてこの方面には近藤信竹中将指揮の第二艦隊があり、戦艦としては金剛と榛名があった。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢は27年を越えており、また兵装・装甲の厚さも元は巡洋戦艦であったため、戦艦として建造されたプリンス・オブ・ウェールズよりも劣っていたため、相手として最新鋭のプリンス・オブ・ウェールズは想定されてはいなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時プリンス・オブ・ウェールズの主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている。他にも重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。金剛、榛名以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。
12月9日?10日の動き
9日15時15分、潜水艦伊65がZ部隊を発見、以下の電文を打電した。
敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「コチサ」[2]一一 針路三四〇度 速力十四節 一五一五
伊65は打電後も接触を続けたが、17時20分に一旦見失った。18時22分ごろに再度発見したものの、程なく見失った。小沢中将はこの報告を受け、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令したものの、スコールに巻き込まれZ部隊を捕捉することができなかった。前述した両艦隊の最接近はこの頃であるが、視界不良で両軍とも相手の存在に気付かなかった。また、夜になって同士討ちも発生したため攻撃を断念して北上した。一方、サイゴンでは、松永貞市少将指揮下の海軍第二十二航空戦隊が攻撃準備を整えていた。あいにく悪天候であったものの、松永少将は17時30分に陸攻(陸上攻撃機)部隊を3波発進させた。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。部隊の一部では鳥海をZ部隊と勘違いし、あわや爆撃しかける一幕もあった。
その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。この状態を保てば、10日早朝には船団に奇襲をかけることができるだろうと判断していた。しかし、18時30分に日本の水上偵察機が複数出現し、フィリップスは進撃を続けるかどうか思案した。とりあえず、テネドスが燃料不足気味だったので単艦でシンガポールに引き返させた。5隻となったZ部隊はなおも進撃を続けていたが、深夜になってフィリップス以下司令部が検討した結果、「日本機によって発見され通報されている公算が大きい」と判断。シンガポールに引き返すこととした。
海軍第二十二航空戦隊(司令官:松永貞市海軍少将、司令部はサイゴン(現在のホーチミン)、第十一航空艦隊所属)
元山海軍航空隊(前田孝成大佐)
美幌海軍航空隊(近藤勝治大佐)
鹿屋海軍航空隊本隊(藤吉直四郎大佐、第二十一航空戦隊より応援で第二十二航空戦隊指揮下に入る)
山田部隊(山田豊中佐、第二十三航空戦隊より増派)
翌12月10日未明、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦伊58が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。
〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度
この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、第三水雷戦隊が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。伊58は以後も接触を続け、Z部隊に対して好射点についた際レパルスに向けて雷撃を行ったが、発射時の不手際によりタイミングがずれたためか命中しなかった。接触中、以下の3通の電文を打電した。
我地点「フモロ」45[3]ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一
敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五
我触接ヲ失ス 〇六一五
6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、近藤中将および小沢中将は、水上部隊と潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった。
戦闘経過
12月10日6時25分、まず松永は索敵機9機を発進させた。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃。続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊(一式陸攻26機。全機雷装)が出撃。直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。
一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。7時18分にスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させ、駆逐艦エクスプレスとクアンタン方面を偵察したが日本軍を発見できなかった。日本軍を発見できなかったZ部隊本体も再び南へ引き返した。
日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。10時52分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中のテネドスを発見し、500kg爆弾を装備する元山航空隊の爆装陸攻隊が戦艦と見誤って攻撃したものの命中弾は得られず、少数とはいえ爆弾を無駄にしてしまった。
11時45分、3番索敵機(機長・帆足正音予備少尉)が待望の東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した。
敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五
司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。
主力上空に最初に到達したのは美幌航空隊の爆装隊の一部8機と元山航空隊の雷装のいずれも九六式陸攻隊であった。爆装陸攻隊はレパルスを目標に投弾。うち1発が命中。ただし、レパルスの損害は軽微であった。雷装陸攻隊は二手に分かれてプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの両艦を狙った。レパルスはテナント艦長の巧みな操艦ですべて回避したものの、プリンス・オブ・ウェールズには左舷後方に2本命中。うち1本の命中した衝撃でプリンス・オブ・ウェールズの推進軸が重大な損傷を受けた。魚雷命中による損傷に加え、湾曲した推進軸によって隔壁が破壊されたこともあり、プリンス・オブ・ウェールズは早くも多量の浸水を見るにいたり、機関室や缶室、発電機室なども浸水し速力が低下、電力供給途絶により後部にある4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た。また、舵機も故障して操艦も不如意となった。
13時50分に戦場に到着したのは鹿屋航空隊の一式陸攻であった。この第二波攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは右舷に4本、レパルスは左右舷に計5本の魚雷をそれぞれ受け、レパルスは被雷後約4分を経た14時3分ごろに沈没した。プリンス・オブ・ウェールズには大量の浸水が生じ傾斜がひどくなった。その後間もなく、美幌航空隊のうち第一波攻撃に参加した機を除く機がプリンス・オブ・ウェールズと駆逐艦を襲い、プリンス・オブ・ウェールズに500キロ爆弾1発を命中させた。爆弾は最上甲板を貫通し内部で炸裂したため同艦の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出た。プリンス・オブ・ウェールズは左への傾斜がひどくなり、駆逐艦エクスプレスが乗員救助のために右舷に横付けして乗員の収容を始めた。トマス・フィリップスは幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った[4][5]。14時50分、プリンス・オブ・ウェールズは左へ転覆し艦尾から沈没した。
日本軍の攻撃でプリンス・オブ・ウェールズが沈んでから間もなく、オーストラリア第453飛行隊のブリュースターバッファロー11機が戦場に到着して、上空直掩を行った。エクスプレスがプリンス・オブ・ウェールズの乗員を救助している間、エレクトラとヴァンパイアが沈没したレパルスの乗組員を捜索し、エレクトラが571名、ヴァンパイアがレパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助した。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。
戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は両艦の沈没した海域に再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表した。
両軍の損害
日本軍
陸上攻撃機未帰還3、その他帰投時に不時着大破した陸攻1、偵察機未帰還2[6]
イギリス軍
沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス
戦死:フィリップス大将、リーチ大佐、840名。
なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾し、うち30機以上が深刻な被害を受けており、2隻の対空砲火がいかに激しかったかを物語る証拠となった。
その後
2戦艦が撃沈された時点で、まだシンガポールには重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦モーリシャス、ダーバン、ダエナ、ドラゴン、駆逐艦ジュピター、エンカウンター、ストロングホールド、スコット、サーネット、オランダ海軍の軽巡洋艦ジャワ、アメリカ海軍の駆逐艦ホイップル、ジョン・D・エドワーズ、エドソール、オールデンがあった。このうち4隻のアメリカ駆逐艦部隊はシンガポールを出航して戦地に向かい、帰路に就く駆逐艦エクスプレスらと遭遇した。エクスプレスは戦闘が終了したことを伝えた。アメリカ駆逐艦部隊は北上を続け、漂流者の捜索を行ったが発見できなかった。
この海戦の結果、インド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。しかし、残存艦はスラバヤ(ジャワ島)に後退してABDA艦隊を編成し、1月24日にはアメリカ駆逐艦部隊による攻撃(バリクパパン沖海戦)でボルネオ島上陸部隊が妨害を受けるなど予断は許されない状況であった。
当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは著書の中でマレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している。
影響
既述の通り「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった。これを戦訓として、各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を、改めて大幅に増強した(実質的きっかけを作った日本海軍は逆にこの点で大きく立ち遅れた)。
しかしながら、これはイギリス側に航空機の支援が無いという特異な状況によるものであった。航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、その状況において航空機が戦艦を沈めるのは極めて困難である。その後の海戦(レイテ沖海戦など)において、それが明らかとなった。
この海戦以後で作戦行動中の戦艦を航空機だけで沈めた戦例は、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和(1945年4月7日)を撃沈した例や、これまた大多数の航空機をもって武蔵(1944年10月24日)を撃沈した戦闘、この2例しかない。作戦行動中の戦艦を初めとする大型艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた(戦艦武蔵の撃沈の際も多数の航空爆弾、航空魚雷を使用。詳しくは戦艦武蔵の項目へ)。もうひとつ、イタリア戦艦ローマがドイツ軍の特殊爆弾「フリッツX」によって撃沈された戦闘(1943年9月9日)も存在するが、これは戦艦ローマが連合軍に降伏しようとしていた状況であり、本当の意味で作戦行動中とは言い難い。
この海戦では猛威を振るった日本海軍の基地航空隊による艦船攻撃の限界も、海戦直後に早くも表れた。基地航空隊は蘭印侵攻作戦にも参加したが、1942年2月4日に起こったジャワ沖海戦では、訓練不足や魚雷の供給が遅れたこともあって、水平爆撃しかできなかった。動きが鈍重な陸上機による水平爆撃だけでは、連合軍艦隊に極めて軽微な損害を与えるにとどまり、これを取り逃がしてしまった。また、艦隊より速度の遅い輸送船団攻撃ですら満足な戦果をおさめられず、1942年2月27日に撃沈した米水上機母艦ラングレー(米海軍初の航空母艦を改造)を除けば大型艦を撃沈することはなかった。その後、1943年1月29日のレンネル島沖海戦の頃までは辛うじて戦果を挙げる事があったものの、次第に連合国側に完全に制空権を握られ、日本側の損害が激増するようになった。これらの経過から、大型の陸上機による艦船攻撃には、多数の攻撃機と、雷装機または命中率の高い爆撃法、制空権の確保が必要であると示されたと言える。