2009年06月26日

戦闘終結宣言後の犠牲者

開戦からブッシュ大統領による戦闘終結宣言が出されるまでの期間は非常に短かったが、現在(2008年3月)もイラク人兵士・警察官・民間人、そしてアメリカ軍をはじめとする多国籍軍兵士も、ともに犠牲者が増え続けている。イラク治安部隊(新イラク軍・新イラク警察)は、イラク警察だけで少なくとも8,000人から10,000人が戦死している。

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アメリカ兵の犠牲者は4,000人を突破し、これに加えて、軍に従事する民間軍事会社の契約要員(米軍から民間委託分野として警備や輸送業務に従事し、治安作戦への参加も指摘されている。実態として傭兵に近い)が、これまでに少なくとも1,000人以上が死亡していると報じられている(そのなかには、軍事経験のある日本人の契約要員が1名いる)。

2007年10月現在、イラクでは各種民間警備会社は、アメリカ正規軍を上回る計18万人が活動中。その活動内容は事実上野放しで、誰を殺しても誰に殺されてもさしたる問題にはされていない。民間警備会社の警備員による虐殺・暴行も報道されており、2007年9月16日にはブラックウォーターUSA社の警備員が乱射で民間人17名を射殺、持参の銃を現場に置いて「武装勢力に対し正当防衛を行った」と悪質な偽証をした事件が表面化[42]、イラク・アメリカで問題となった。

また、英軍の死者170人、その他諸国軍の死者132人と合わせて、連合軍全体の死者数では4,000人以上(民間軍事会社の契約要員を除く)となる。

2009年06月10日

自動車、タバコ、工場の煙等の環境刺激因子(アレルゲン)

自動車、タバコ、工場の煙等の環境刺激因子(アレルゲン)、寒気、運動、ストレスなどの種々の刺激が引き金となり、これらに対する過敏反応として気管支平滑筋、気道粘膜の浮腫、気道分泌亢進などにより気道の狭窄・閉塞が起こる。気道狭窄によって、喘鳴、息切れ、咳などの症状を認める。喘息発作時にはこれらの症状が激しく発現し、呼吸困難や過呼吸、酸欠、体力の激しい消耗などを伴い、時には死に至ることもある。かぜをひくと症状がひどくなることも多い。

アトピー型の喘息患者が発作を引き起こすのはI型アレルギーにより化学伝達物質が発生するためである。その誘因は細菌・ウイルス感染、過労、ハウスダスト(埃・ダニ・花粉・カビなど)・食物・薬物などのアレルゲン、運動、タバコ、アルコール、気圧変化、精神的要因[要出典]などさまざまである。

一方、非アトピー型の気管支喘息の病態生理はまだはっきりしていない。だが、肉体的ストレスを含めたストレスが喘息に悪影響を与えているという説はある
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上場
バイアスロン


理学所見
聴診にて、呼吸音で笛声音(wheeze, piping rale)が発作時に聴取されることが多い。ただし必ず発作時に喘鳴が聴取されるとは限らない。症状は気候や時間帯で変化する。
呼吸数増多(英 tachypnea)やチアノーゼ(英 cyanosis)がみられることもある。
気道可逆性試験
気管支喘息の診断には気道閉塞の可逆性を証明することが重要である。β2刺激薬吸入前後、あるいは2-3週間のステロイド内服・吸入前後で呼吸機能検査を行い、1秒量が200ml以上かつ12%以上改善した場合、気道可逆性ありと診断する。ただし検査時に喘息発作が起きていない場合、気道の可逆性を証明できないこともあるため自宅にピークフローメーターを持って帰ってもらい、ピークフロー値に20%以上の日内変動がみられた場合も気道可逆性ありと診断できる。
スパイロメトリー
スパイロメーターを用いた呼吸機能検査。
血液ガス
胸部X線写真
通常は異常を認めない。喘鳴や気道狭窄を来す他の疾患(腫瘍や肺炎など)や心不全を除外することが重要である。
血液検査
末梢血中好酸球の増加や非特異的IgE値の上昇がみられれば、本疾患の補助診断となりうる。また、アレルゲンを調べるために、アレルゲン特異的IgE抗体を測定する。
病理学的所見
気管支壁に好酸球浸潤と平滑筋肥大が認められる。
アスピリン喘息では鼻茸を合併することが多い。
専門的検査
専門医の下ではコントロール不良例に限り、肺機能の評価、気道過敏性の試験の他、人工気象室での発作程度の評価やエルゴメータでの運動誘発性の評価なども行う場合があるが初期治療の段階ではほとんど行われない。

2009年06月07日

アジャンクールの戦い

アジャンクールの戦い(仏:Bataille d'Azincourt, 英:Battle of Agincourt)は、百年戦争中の1415年10月25日、フランスのアジャンクールで行われた戦い。アザンクールの戦いとも、アジャンクールの英語読みからアジンコートの戦いとも呼ばれる。ヘンリー5世の率いるイングランド軍(7,000名)がフランス諸侯軍(20,000名)を破った。イングランド軍が長弓隊を駆使して、数に勝るフランスの重装騎兵に圧勝した戦いとして有名である。多くのフランス貴族が討ち取られ、フランスがヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承を認める原因になった。
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雨上がりの狭間地に陣取ったイングランド軍に、圧倒的な数のフランス重装騎兵が突進したため土壌が泥濘と化し、人や馬の脚がとられて進退窮まったところに、イングランドの軽装歩兵が殺到して殲滅したという研究もある。

2009年04月23日

フェートン号事件

フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。

1641年以降、欧州諸国のなかでオランダ(ネーデルラント連邦共和国)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には長崎に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた。

18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、ナポレオン皇帝は1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下に置かれることとなった。

イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。

事件の経過
文化5年8月15日(1808年10月4日)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲートフェートン(フリートウッド・ペリュー艦長[1])は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名は慣例に従い、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拿捕され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人ホウゼンルマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求した。

長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートンの焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促した。オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧めたが、ここに来て長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて守備兵をわずか150名程度に減らしていたことが判明する。

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翌16日、イギリス船がオランダ人1名を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送った[2]。このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、翌17日に港外に去った。

手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに江戸幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。フェートン号事件ののち、ズーフや長崎奉行曲渕景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。

一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、バタヴィアを攻略、東インド全島を支配下に置いた。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ズーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置された。

2009年04月22日

仰韶文化

仰韶文化 (ぎょうしょうぶんか/ヤンシャオぶんか、英: Yangshao culture、漢語ピンイン: Yǎngsháo wénhuà) は中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化である。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前3000年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた。仰韶村遺跡は1921年に河南省澠池県仰韶村で発見された。この文化が主に栄えた地域は、河南省、陝西省および山西省である。

仰韶の人々の自給自足生活はさまざまである。彼らは広く粟を耕作していた。麦や米を耕作していた村もあった。仰韶農業の正確な性質 -- 小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か、は現在議論の余地がある。しかしながら、Jiangzhiのような中程度の仰韶集落には、余剰の穀物を格納するために使われた可能性のある高床式建築があった。彼らは豚や牛、そのほか羊、山羊、および牛のような動物を飼っていたが、それらの肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。彼らの石器は研磨されており、非常に専門化されていた。仰韶の人々は原始的な形態の養蚕も実践していた可能性がある。
コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン


仰韶文化はその彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成した。後世の龍山文化と異なり、仰韶文化は土器の作成にろくろを使わなかった。発掘調査により、子供達が彩文土器のかめに埋葬されていたことが判明した。

西安に近い半坡村の考古学遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な溝で囲まれた集落の1つである。姜寨と呼ばれるもう1つの主要な集落がその限界に発掘され、考古学者たちはそれが完全に環濠で取り囲まれていたことを発見した。

段階
仰韶文化の重複する多数の段階のうち、もっとも有名で、土器のスタイルの違いに代表されるものは、以下の通りである:

半坡期、およそ紀元前4800年から紀元前4200年、中原
廟底溝期、およそ紀元前4000年から紀元前3000年、半坡の後継
馬家窯期、およそ紀元前3300年から紀元前2000年、甘粛省、青海省にて
半山期、およそ紀元前2700年から紀元前2300年、馬家窯の後継
馬廠期、およそ紀元前2400年から紀元前2000年

2009年04月05日

大窪詩仏

大窪詩仏(おおくぼしぶつ、明和4年(1767年) -天保8年2月11日(1837年3月17日))は、江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。??常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。

名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。

少年期 [編集]
詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。 父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。

修業時代 [編集]
詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳の若さで早世し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。

活動期 [編集]
25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。

絶頂期 [編集]
文化3年3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。

珍事 [編集]
文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付表に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。

仕官 [編集]
地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。

不運 [編集]
文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。

晩年 [編集]
晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。また肉体的にも衰えが目立ち、65歳 秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。 天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。

人物 [編集]
詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。

業績・評価 [編集]
市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。 太田蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百膳」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。

師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした
孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれた。多くの詩仏ファンから書画の揮毫を求められ潤筆料を稼いだ。

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2009年03月21日

B寝台

B寝台(びーしんだい)は、JR車両の寝台車の区分の一つである。

3等級制当時(1960年以前)の「三等寝台車」および、2等級制当時(1960年?1969年)の「二等寝台車」の後身に相当する。
オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン

2008年現在、開放型寝台と個室寝台の両方が存在する。開放型寝台は、古くは3段式を標準としたが、1986年以降581・583系電車を除き、現在では2段式寝台が標準とされる。

個室寝台は1980年代中期以降登場してきたもので、1人用・2人用・4人用がある。なお、4人用は開放寝台としても使用できるもののみである。

設備グレードは座席車における普通車に相当し、車体の記載記号は等級記号であるイロハの「ハ」と、寝台車を表す「ネ」を組み合わせた「ハネ」である。

歴史 [編集]
寝台車そのものの考案は1865年にまで遡るが、大衆乗客向けの簡易な構造を採った寝台車は、1910年代に北欧に出現したのが最初である。

日本の寝台車は山陽鉄道が、1900年に「一等寝台車」、1903年に「二等寝台車」を導入したのが最初である。しかし、大衆向けの「三等寝台車」は、後れて登場する。

戦前の三等寝台車 [編集]
1920年代から1930年代中期にかけて、不況下にあった鉄道省は一般乗客誘致のために様々な施策を行った。その一環として1930年に最初の「三等寝台車」であるスハネ30000形が開発され、翌年までに30000?30009の計10両が製作された。

外見的な最大の特徴は深い丸屋根であるが、これは従来のダブルルーフ(二段屋根)では車両限界をフルに生かせず、上段寝台が窮屈になることから、国鉄で初めて本格的に採用されたものであった。この車両に見られる、限界まで車体高さを確保しようとする設計思想は、現代の寝台車でも踏襲されている。なお、この形式は工程に溶接を多く導入し、リベットを減らしている。台車は当時の客車用標準型であったTR23形であった。

レイアウトは、既にヨーロッパに登場していた簡易寝台車の流れを汲むもので、片側通路式、3段式寝台を枕木方向に配置して6人収容のボックスを9組配置し、定員54人を確保していた。

寝台の規格は、長さ1,900mm、幅520mmで、一人当たりのスペースは最小限であった。また、当時は各寝台にカーテンも設けられていなかった。このあたりは、現在でもヨーロッパの鉄道に運行されているクシェット(簡易寝台車)に似ている。

この車両は、1931年から東海道・山陽本線の特急・急行列車に連結された。寝台料金は上段80銭、中段・下段1円50銭と記録され、決して格安ではなかったが、三等乗客でも横になって旅行できるということで好評を得た。

スハネ30000形の実績を考慮し、改良型の三等寝台車であるスハネ30100形が開発された。車体高をわずかに増加させて寝台上下の余裕を増やし、寝台長さを削って通路幅を拡大させている。また、利用者にとっての最大のサービス改善としては、寝台カーテンの装備が挙げられる。

スハネ30100形は、1931年から1937年までに30100?30209の合計110両が製造されて、全国の特急・急行列車に連結された。各列車に1、2両連結される程度であったが、利用率は高かったという。

1941年の客車称号改正により、スハネ30000形はスハネ30形に、スハネ30100形はスハネ31形になったが、1937年以降の戦時体制下では三等寝台車そのものが輸送力増強と相反する「過剰サービス」と見られるようになり、称号改正前の1940年から三等座席車への改造が行われた結果、オハ34形に吸収された。1941年7月には三等寝台車の営業そのものが廃止された。

三等寝台車の復活 [編集]
太平洋戦争後の混乱期において、日本の鉄道は増加する輸送需要への対応と、進駐軍の輸送業務とに追われ、戦前並みのゆとりを持った旅客サービスの復活は遅れた。それでも社会が安定してきた1950年代中期になると、多数派である三等乗客へのサービス向上が検討されるに至り、その結果三等寝台車も復活することになる。

1955年に開発された超軽量客車ナハ10形の構造を元に、超軽量の三等寝台車ナハネ10形が開発され、1956年初めから東海道本線の急行列車に連結されて大きな成功を収める。レイアウトは戦前のスハネの流れを汲み、寝台幅も520mmであったが、車体幅が拡大されたため寝台長さが延長された。以後、ナハネ10形ほかの10系寝台車は1965年まで大量に製作。全国の急行列車に用いられたが、前1954年に一等寝台車「イネ」は二等寝台車「ロネ」に格下げとなっていたため、戦前に存在したイネ・ロネ・ハネの三等級が連結された列車はついに復活しなかった。

寝台需要の増加に10系寝台車の製作が追いつかず、戦前の元・三等寝台車であったオハ34形が1959年 - 1962年にかけて計102両も三等寝台車に復元改造された(スハネ30形99両、スハネフ30形3両。1974年までに廃車)。内装は10系に準じたものを新製装備している。

10系寝台車の延長上に、1958年には特急列車用の20系客車が開発された。20系は空気バネ台車を装備し、冷暖房を完備した優秀な車両であるが、三等寝台車の設備レイアウト自体は10系同様の520mm幅3段式である。

なお1960年の2等級制移行に伴い、従来の三等寝台車は、新たに二等寝台車に改名・移行している。

二等寝台車になっても車両不足は恒常的で、1961年には在来型客車の部品を流用した改造軽量寝台車のオハネ17形が開発され、1965年までに実に302両が製作された。

寝台設備の改善 [編集]
20系客車までの二等寝台車(旧・三等寝台車)は、いずれも輸送力を重視した車両であった。寝台の幅が520mmと狭く、また3段寝台ゆえに寝台面から天井までの高さは平均60cm程度で、ひとたび横たわれば身動きもままならない窮屈なものであった。養蚕農家のそれになぞらえた「カイコ棚」という揶揄もあったほどである。

1964年2月1日には、それまで枕と毛布だけだった二等寝台車に、まず下段のみシーツが登場した[1]。

1967年に開発された初の寝台電車である581系電車は全車二等寝台車だったが、寝台幅を上・中段は700mm、昼間時座席となる下段は1,060mmに拡大した。これによって寝返りを打てるゆとりはできたものの、寝台内で起きあがることはできなかった。

1969年のモノクラス制移行により、二等寝台車はB寝台車と改名された。1971年開発の14系客車でもB寝台車寝台の700mm幅は踏襲されたが、相変わらず3段寝台であった。

1974年登場の24系25形客車では2段寝台が導入され、居住空間が改善された。寝台面から天井までの高さが90cm以上となったことで、寝台内で背を起こし、衣服を変える程度のゆとりは確保された。

客車の開放式B寝台車は寝台を枕木方向に並べられているため、原則として寝台部分の通路は車両の片側に寄せられているが、583系電車の開放式3段寝台はレール方向に寝台を並べているため、通常の車両と同じく車両の中央に通路が設けられている点に相違がある。

個室B寝台 [編集]
B寝台は長い間、あくまで輸送力確保の手段と考えられており、開放式寝台車のみが製作されてきた。個室式B寝台車の最初は、1984年に「さくら」・「みずほ」に改造で連結された4人用寝台「カルテット」である。

国鉄民営化後には、在来客車の改造によって1人用B寝台個室「ソロ」、2人用B寝台個室「デュエット」などが登場し、「北斗星」をはじめとする主要な寝台特急列車に連結されるようになった。また、1998年に新造した285系電車も、個室B寝台を中心とした構成である。これらの個室寝台は、社会全体におけるプライバシーや防犯意識の高まりとともに普及したものである。

1人用個室「ソロ」の場合、寝台料金は6,300円とビジネスホテル並み、設備はカプセルホテル並みであるが、料金が同じにもかかわらずドミトリー形式相当の開放式寝台との設備の差は歴然としている。

また、285系電車「サンライズエクスプレス」を使用した「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」に連結されている1人用個室「シングル」は、同じ1人用個室「ソロ」より1,050円追加した値段で、一般的なカプセルホテルをはるかに凌ぐ頭上スペースを備えた個室寝台が利用できる。

個室の施錠方式は、鍵・錠前によるものと暗証番号を入力する方式がある。

名称 [編集]
1人用寝室
ソロ
シングル
シングルツイン
2人用寝室
デュエット
ツイン
サンライズツイン - 285系電車を使用する「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」のみ設定
4人用寝室
カルテット - 2000年までに全廃
Bコンパート - 簡易式個室寝台で、販売上も個室としての区別はない

2009年03月06日

海戦術(かいせんじゅつ、英:Naval tactics)

海戦術(かいせんじゅつ、英:Naval tactics)とは海戦において艦隊を効果的に運用する戦術である。海軍戦術とも言う。

陸戦や航空戦で用いられる戦術とはその内容が大きく異なるために区別して理解されている。

海戦術とは海戦における戦術であり、任務を達成するために戦場および戦場付近の地域における艦隊の陣形・運動・射撃などを指導する科学・技術であると定義される。

また海軍部隊は気象・海象の影響や補給の問題から陸軍部隊のように一定の地域において長期間対峙することが出来ず、短期決戦となる。そのために戦果は圧倒的な勝利と、壊滅的な敗北に二極化する特徴が見られる。さらに陸軍部隊のように地形的な優位を持つことが難しく、その上兵器の物量や質の優劣が明確に勝敗に表れる。従って彼我の戦闘での優劣はランチェスターの法則がそのまま適用されることになる。[1]したがって戦闘の大勢は戦略配備によっていかに優れた戦力を集結させるかによって決まる。しかし実際に敵を発見して艦隊が戦術運動を行い、敵を撃滅する戦闘においては海戦術の有用性が発揮される。

海戦では戦場が海洋・河川・湖などの水域であり、そこで活動する戦闘単位は艦船となり、その集合体として戦闘を行う場合には艦隊として運用される。艦船は通常それ自体が複合的な兵器システムを装備しており、また陸上戦力のように戦力を細分化するなどの多様な運用を行うことはできない。ここでは主に対水上戦闘について述べるが、海上作戦においては対空戦闘・対潜戦闘・航空戦・航空打撃戦・電子戦・情報戦なども同時に遂行される。[2]定量的な戦闘力の優劣だけでなくその連絡と連携の運用的な優劣によって劣勢な戦力が優勢な戦力を破ることも可能であると考えられ、また歴史もこれを実証している。敵部隊の大部分の撃沈、捕獲、戦闘不能によって戦闘の勝敗は決まる。

歴史
海戦術の歴史は船舶の技術的な発展と呼応して進歩してきた。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

ガレー船時代の海戦戦術
帆船時代の海戦戦術
蒸気船時代の海戦戦術
近代的な海戦術研究については、陸軍戦術の研究が進展や技術躍進によって19世紀後半から行われるようになり、コロムが1891年に『海戦論』を出してその海戦術研究の先駆けとなった。19世紀になると、マハンが戦史研究に基づいた『海上権力史論』を出して海軍の戦略・戦術理論を包括的に論じた。ダリューは『海戦論』において陸海軍の戦術は本質的に共通していると論じ、また当時行われていた巨砲を装備した部隊による決戦と小規模部隊による奇襲をめぐる論争で巨砲主義を支持した。ロシア海軍のマカロフは陸海の戦術は異なるものであり、また巨砲主義を批判して奇襲攻撃を支持していた。日本海軍においては佐藤鉄太郎が戦史研究から敵の海軍力の撃滅こそが重要だと考えた

2009年02月14日

人妻戦隊アイサイガーPOWERED

 魔教星団ダラクーザの脅威が去ってから半年。世界を救った人妻戦隊の存在は世間に広く認知され、侵略者による危機が去った現在でも、大規模な事故から小規模な事件まで種類問わず、多くの人々を救うヒーローとなっていた。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

 星林女子学園に通う女子学生、桜坂 ひかり。彼女もまた、人妻戦隊に憧れる一人。現役高校生の彼女は、実は大好きな祖父の為花嫁姿を見せたいと、幼馴染である学園の古文教師と結婚した隠れ人妻なのである。彼女は、憧れるだけでなくいつか一緒に戦いたいと夢見ていた。

 そんなある日、学園の体育教師が突然化け物に変貌し、ひかりを犯そうとしてくる。恐怖に震えるひかり、もうダメ!と絶望しかけたその時、夢にまで見たあの人たちが現われる!

《あなたの愛で……強くなるっ! 人妻戦隊 アイサイガー!!》

 今、新たな侵略者『機生帝国ネクロイア』との戦いの火蓋が切られようとしていた。

ストーリーの流れは、前作と同様。詳しくは【こちら】を参照。カードの種類は30種増えた130種。前作ではカードバトルに負けた際、凌辱されるキャラクターは固定式だが、今回は対象キャラクターを全ヒロインから選択可能(一部除く)。前作のセーブデータがあれば、カードデータを引き継ぐ事も可能。 イベントパートに新キャラクターが登場。その他、機械姦関連描写が大部分を占めており、業界初『女性型巨大ロボットが襲われる』『出産する』という見所がプラス。従来の人間ファンユーザーからロボエロユーザーからツボ押しされるマニアックな内容となる。

直太郎が製作した同人誌『人妻戦隊アイサイガー』の具現化した装備を纏った人妻戦士。基本デザインは皆、エプロン。前作からデザインが一新されている。 今作から、本格的に人妻戦士に【属性】が付属するようになった。

守崎 美紅(もりさき みく)声:柴田蕗
名乗り=『燃える炎の熱いバラ! サイガーローズ!!』
人妻分類=【新妻】
24歳。星林保育園で働く若手保育士で主人公の愛妻。属性は【火】
スピード戦法を得意とする炎の戦士。武器は出刃包丁を具現化した【デバ=セイバー】
菱堂 藍胡(ひしどう あいこ)声:まりもりん
名乗り=『流転の水に咲くアヤメ……サイガーアイリス!』
人妻分類=【子持ち】
36歳。事故で車椅子生活を負った夫を献身的に支えている子持ち主婦。属性は【水】
敵の戦法を冷静に分析し、流水の如く攻撃を受け流す。武器は全自動洗濯機を具現化した【ビート=ウォッシャー】
ソフィー・アンドレア・雪籐(ゆきとう)声:黒崎猫
名乗り=『悪が吹き飛ぶ百合の風! サイガーリリー!』
人妻分類=【シスター+未亡人】
30歳。修道院で住み込みで働いている国際結婚のシスター。警官であった夫の殉職を経験していることから、命の尊さを何よりも大切にしている。属性は【風】
アイサイガーのムードメーカーで、如何なる悪も吹き飛ばす。武器はサイクロン掃除機を具現化した【サイ=クリーナー】
アイサイオー
名乗り=『鋼鉄(はがね)の人妻 アイサイオー』
人妻分類=【巨大ロボット+シングルマザー】
アイサイガーが搭乗する女性型巨大ロボ。『造影者(プロジェクシャン)』直太朗の追加構想か機体デザインが【裸エプロン】である事が明らかとなった。
後に娘・キョウサイガーによって中破されるも、復興したオフィーリア星の超科学力と茜島重厚のテクノロジーによって復活。
必殺技は【妻王剣・人妻千人斬り】
新登場戦士

新たに登場した人妻達。同人誌『人妻戦隊アイサイガー』の設定を追加想像した為に誕生した。

桜坂 ひかり(おうさか ひかり)声:西野みく
名乗り=『聖き光に舞うさくら サイガーチェリー!』
人妻分類=【幼妻】
18歳。星林女子学園に通う現役女子学生。属性は【光】
幼い頃、諸事情で書道家の祖父に引き取られた。祖父に花嫁姿を見せる為、兄弟子でもある幼馴染と結婚。自身が通う高校の教師である為、卒業までは秘密を守り通すため指輪をしていない(首飾りにしている)。おじいちゃんっ子で、朗らかで明るい普通の女子高生。「おじいちゃんが言ってました」が口癖で、祖父の言葉を引き合いに出しながら自分の意見を言うことが多い。
名前の通り桜のようにひらひらしたアーマーを着用。なぜかバイザーが無く素顔が見える。成長途中である為パワーも美紅たちに較べて低いが、根性でカバー。ネクロビースト化した人間を元の姿に戻す能力を持っているが、なぜそんな力があるのかは自分もわかっていない。
武器は巨大ほうきを具現化した【ルミネスブルーム】。本来は打撃用武器だが、主に筆として使う。空中に「滅」や「浄」と言った光の文字を書くことにより、それに見合った事象を発現させるいわゆる魔女っ子。
茜島 蘭牙(あかねじま らんが)声:咲良さく
名乗り=『闇に気高く、蘭の花……サイガーオーキッド!』
人妻分類=【セレブ+恐妻】
24歳。大企業集団・茜島財閥の総帥。属性は【闇】
幼い頃からセレブリティに暮らしている為か、プライドが非常に高く、二言目には「茜島の名にかけて!」と言うのが口癖。二年前に夫を亡くしているが、これは蘭牙の有能さゆえ夫が自信を失い自殺してしまったため。夫の葬儀の翌日から平然と激務をこなしていたため「鋼の恐妻」との異名をとる。
幼児期に美紅と同じ幼稚園だった時期があり、美紅からは幼馴染として親しく「ガッちゃん」と呼ばれるが、ほぼ逆恨みに近い憎しみを抱き、アイサイガーとして活躍する彼女に嫉妬して、もて余る財力と最先端を行く茜島重工の技術力を駆使し強化スーツ「キョウサイガー」を作らせた。
実はおばあちゃん子で、その辺ひかりと気が合う。
蘭をモチーフにした濃厚色のアーマーを着用。全員の中では一番露出度が高い。
武器は電子レンジの発熱部分を具現化した【グリルビュート】。鞭として仕様する様子は、恐妻を越えて女王様である。

人妻戦隊を取り巻く人々
守崎 直太朗(もりさき なおたろう)
主人公。
趣味を公認された上に、『オルガカード』にイメージを投影できる能力の持ち主『造影者(プロジェクシャン)』であるが為、妻を愛しつつヅマスキーを全開している。
相変わらず素顔は不明。
千葉 風見子(ちば ふみこ)声:平野響子
人妻分類=【義母】
42歳。美紅の母で直太郎の義母。相も変わらずマイペース。
パンネルド・コーネリアス13世 声:児玉さとみ
通称「パン猫」。オルフィー星の王家に代々仕える外見猫。ダラクーザが滅んだ後、王妃とともにオルフィー星に帰っていたが、今回の地球の危機に際し、アイサイガーのサポートのため再びやってきた。
ジャイゴン 声:鉄滝次
インターネット喫茶『KASS(カス)』店主。相変わらず、乳が好き。新規カードの一部はここが入手場所になっている。
新登場人物

桜坂 龍童(おうさか りゅうどう)
人間国宝級の著名な書道家でひかりの祖父。近頃は体調を崩している。
霧山 礼(きりやま れい)
龍童の弟子の一人。星林女子学園の古文新米教師で女子生徒からの人気も高い。
幼い頃からひかりを知っており、妹のように思っている。夫婦となったが、はたして自分の思いはひかりを女性としてか、妹として思っているのか曖昧なことを自覚している為、彼女に本当に好きな人が現われるまでは指一本触れないでおこうと考えている。

茜島重工
サイガーオーキッドこと茜島蘭牙の所有する企業。 蘭牙のハトコ、茜島 源之助が社長を勤める。当初は敵対していたが、のちに改心した蘭牙によってそれまで個人で動いていた人妻戦隊を全面バックアップ。アイサイガーの修理からドリルサイガー、デルタサイガーなどのサイガーマシンや、様々な武器開発を手がけることになる。

茜島 源之助(あかねじま げんのすけ)
茜島財閥所属の企業・茜島重工の社長。蘭牙のはとこで、キョウサイガープロジェクトの最高責任者である。
蘭牙のことは幼い頃から知っており、昔からなにかとこき使われている。

機生帝国 ネクロイア
自立思考する巨大コンピュータ《ネクロマザー》が統治する機生生命体帝国。 宇宙の平穏のため、行動原理が不確定な有機生命体は不要と考えたネクロマザーの命により、すべての生物を機生融合体【ネクロイド】に進化させるのが目的。

女帝 ネクロマザー 声:永野らび
人妻分類=【聖母】
身長57メートル。巨大な裸婦の姿をしたマザーコンピュータ。元々はプロフェッサー・ドクトの理想の母親像を具現化した存在だったが、大演算能力をもって思考した結果、不確定な事柄で動く人間の存在を嘆き、皆が同じ思考で動く機械帝国でもって種の安泰をもたらすべく行動した。
メカと生物の融合である機生生命体を次々に生み出す超生産能力を有し、数々の星の生態系を破壊し、住人をネクロイド化してきた。そのまなざしは慈愛に満ち、完璧なプロポーションをもつ。
アイサイオーの受精卵をその体に着床させ、キョウサイオーを代理出産する。
プロフェッサー・ドクト
元々は優秀な科学者で、ネクロマザーを作り上げるもその思想に依存。真っ先に我が身をネクロイド化したマッドサイエンティスト。
全ての元凶であり、ネクロマザーの容姿は彼の趣味。
蟲使い ドリエル 声:児玉さとみ
ネクロワームを操る少女型ネクロイド。仮面を付け、深々とフードをかぶっているので、素顔は見えず。ブロッケンと共に行動している。三つ編みをしており、胸は無い。
拳闘士 グロッケン
ネクロマザーの肋骨から産みだされた上級機生生命体。ドリエルを肩に乗せ、地球上で隠密に活動を行う。ネクロビーストを巨大化する『ミューテーション・ブロウ』を放つ事ができる。
キョウサイガー
もとは、茜島重工が開発した強化スーツだが、ネクロイアの策略により蘭牙が強制的に機生融合された姿。ネクロマザーの忠実な僕。キョウサイオーを操り、すさまじい力でアイサイガーを圧倒する。
ネクローン
いわゆる下級戦闘員。等身大だが、小型カプセル化して持ち運ぶこともできる。
『機生生命体(ネクロワーム)』
ネクロマザーが0から生み出す生命体。『父』という物をもたず、全てを母・ネクロマザーに依存する。形状は昆虫・触手・ヒルなど様々。全身から分泌するネクロミウム酸により有機生命体を半機械化(ネクロイド化)する特質を持つ。
単体でも雌雄とわず生殖行動を行う事で雌の次世代をネクロイド化、あるいは卵を産むことで繁殖可能。固体によっては人間と融合する場合もあり、その状態はネクロビーストと呼ぶ。生命の危機にさらされると、攻撃代謝反応を起こしネクロミウム酸を大量分泌、相手を道連れにネクロイド化する。
『ネクロイド』
生物と機生生命体が融合した存在。生物側の思考はほぼ全て支配され、機生生命体の思考・【絶対服従】を刷り込まれている。
『ネクロビースト』
ネクロイドの中でも、人間の雄種の特徴を濃く反映した存在。本能のまま見境無く牝種を襲うようになる。

2009年01月28日

マレー沖海戦

マレー沖海戦(マレーおきかいせん)とは、太平洋戦争の初期の1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない[1]」との常識をくつがえし、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に影響をあたえた。

背景
(以下日付、時刻は現地時刻)

彼我の情勢
太平洋戦争の開始日は1941年12月8日であるが、その直前の12月2日にイギリス海軍の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスと護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターからなるG部隊がシンガポールのセレター軍港に到着した。当初は新型空母のインドミタブルも加わる予定であったが、同艦はバミューダ島で座礁事故を起こして合流できなかった。12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた。(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英蘭豪への宣戦を布告したと報じた。)この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。

イギリス東洋艦隊(司令長官トーマス・フィリップス海軍大将)は、この日本軍マレー上陸部隊の輸送船団攻撃のため、Z部隊を編成して12月8日17時過ぎにシンガポールを出航した。

Z部隊兵力
戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ
巡洋戦艦:レパルス
駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、テネドス、ヴァンパイア(この艦はオーストラリア籍)
この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかったが、チャーチル首相はZ部隊を快速の遊撃部隊として活用することを主張した。フィリップス提督は、空軍の航空支援には期待できないことを知っていたが、日本軍の空襲による危険は大きくないと判断していた。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。

一方、日本海軍の戦力としてこの方面には近藤信竹中将指揮の第二艦隊があり、戦艦としては金剛と榛名があった。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢は27年を越えており、また兵装・装甲の厚さも元は巡洋戦艦であったため、戦艦として建造されたプリンス・オブ・ウェールズよりも劣っていたため、相手として最新鋭のプリンス・オブ・ウェールズは想定されてはいなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時プリンス・オブ・ウェールズの主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている。他にも重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。金剛、榛名以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。

12月9日?10日の動き
9日15時15分、潜水艦伊65がZ部隊を発見、以下の電文を打電した。

敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「コチサ」[2]一一 針路三四〇度 速力十四節 一五一五
伊65は打電後も接触を続けたが、17時20分に一旦見失った。18時22分ごろに再度発見したものの、程なく見失った。小沢中将はこの報告を受け、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令したものの、スコールに巻き込まれZ部隊を捕捉することができなかった。前述した両艦隊の最接近はこの頃であるが、視界不良で両軍とも相手の存在に気付かなかった。また、夜になって同士討ちも発生したため攻撃を断念して北上した。一方、サイゴンでは、松永貞市少将指揮下の海軍第二十二航空戦隊が攻撃準備を整えていた。あいにく悪天候であったものの、松永少将は17時30分に陸攻(陸上攻撃機)部隊を3波発進させた。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。部隊の一部では鳥海をZ部隊と勘違いし、あわや爆撃しかける一幕もあった。

その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。この状態を保てば、10日早朝には船団に奇襲をかけることができるだろうと判断していた。しかし、18時30分に日本の水上偵察機が複数出現し、フィリップスは進撃を続けるかどうか思案した。とりあえず、テネドスが燃料不足気味だったので単艦でシンガポールに引き返させた。5隻となったZ部隊はなおも進撃を続けていたが、深夜になってフィリップス以下司令部が検討した結果、「日本機によって発見され通報されている公算が大きい」と判断。シンガポールに引き返すこととした。

海軍第二十二航空戦隊(司令官:松永貞市海軍少将、司令部はサイゴン(現在のホーチミン)、第十一航空艦隊所属)
元山海軍航空隊(前田孝成大佐)
美幌海軍航空隊(近藤勝治大佐)
鹿屋海軍航空隊本隊(藤吉直四郎大佐、第二十一航空戦隊より応援で第二十二航空戦隊指揮下に入る)
山田部隊(山田豊中佐、第二十三航空戦隊より増派)
翌12月10日未明、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦伊58が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。

〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度
この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、第三水雷戦隊が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。伊58は以後も接触を続け、Z部隊に対して好射点についた際レパルスに向けて雷撃を行ったが、発射時の不手際によりタイミングがずれたためか命中しなかった。接触中、以下の3通の電文を打電した。

我地点「フモロ」45[3]ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一
敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五
我触接ヲ失ス 〇六一五
6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、近藤中将および小沢中将は、水上部隊と潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった。

戦闘経過
12月10日6時25分、まず松永は索敵機9機を発進させた。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃。続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊(一式陸攻26機。全機雷装)が出撃。直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。

一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。7時18分にスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させ、駆逐艦エクスプレスとクアンタン方面を偵察したが日本軍を発見できなかった。日本軍を発見できなかったZ部隊本体も再び南へ引き返した。

日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。10時52分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中のテネドスを発見し、500kg爆弾を装備する元山航空隊の爆装陸攻隊が戦艦と見誤って攻撃したものの命中弾は得られず、少数とはいえ爆弾を無駄にしてしまった。

11時45分、3番索敵機(機長・帆足正音予備少尉)が待望の東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した。

敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五
司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。

主力上空に最初に到達したのは美幌航空隊の爆装隊の一部8機と元山航空隊の雷装のいずれも九六式陸攻隊であった。爆装陸攻隊はレパルスを目標に投弾。うち1発が命中。ただし、レパルスの損害は軽微であった。雷装陸攻隊は二手に分かれてプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの両艦を狙った。レパルスはテナント艦長の巧みな操艦ですべて回避したものの、プリンス・オブ・ウェールズには左舷後方に2本命中。うち1本の命中した衝撃でプリンス・オブ・ウェールズの推進軸が重大な損傷を受けた。魚雷命中による損傷に加え、湾曲した推進軸によって隔壁が破壊されたこともあり、プリンス・オブ・ウェールズは早くも多量の浸水を見るにいたり、機関室や缶室、発電機室なども浸水し速力が低下、電力供給途絶により後部にある4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た。また、舵機も故障して操艦も不如意となった。

13時50分に戦場に到着したのは鹿屋航空隊の一式陸攻であった。この第二波攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは右舷に4本、レパルスは左右舷に計5本の魚雷をそれぞれ受け、レパルスは被雷後約4分を経た14時3分ごろに沈没した。プリンス・オブ・ウェールズには大量の浸水が生じ傾斜がひどくなった。その後間もなく、美幌航空隊のうち第一波攻撃に参加した機を除く機がプリンス・オブ・ウェールズと駆逐艦を襲い、プリンス・オブ・ウェールズに500キロ爆弾1発を命中させた。爆弾は最上甲板を貫通し内部で炸裂したため同艦の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出た。プリンス・オブ・ウェールズは左への傾斜がひどくなり、駆逐艦エクスプレスが乗員救助のために右舷に横付けして乗員の収容を始めた。トマス・フィリップスは幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った[4][5]。14時50分、プリンス・オブ・ウェールズは左へ転覆し艦尾から沈没した。

日本軍の攻撃でプリンス・オブ・ウェールズが沈んでから間もなく、オーストラリア第453飛行隊のブリュースターバッファロー11機が戦場に到着して、上空直掩を行った。エクスプレスがプリンス・オブ・ウェールズの乗員を救助している間、エレクトラとヴァンパイアが沈没したレパルスの乗組員を捜索し、エレクトラが571名、ヴァンパイアがレパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助した。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。

戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は両艦の沈没した海域に再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表した。

両軍の損害
日本軍
陸上攻撃機未帰還3、その他帰投時に不時着大破した陸攻1、偵察機未帰還2[6]
イギリス軍
沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス
戦死:フィリップス大将、リーチ大佐、840名。
なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾し、うち30機以上が深刻な被害を受けており、2隻の対空砲火がいかに激しかったかを物語る証拠となった。

その後
2戦艦が撃沈された時点で、まだシンガポールには重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦モーリシャス、ダーバン、ダエナ、ドラゴン、駆逐艦ジュピター、エンカウンター、ストロングホールド、スコット、サーネット、オランダ海軍の軽巡洋艦ジャワ、アメリカ海軍の駆逐艦ホイップル、ジョン・D・エドワーズ、エドソール、オールデンがあった。このうち4隻のアメリカ駆逐艦部隊はシンガポールを出航して戦地に向かい、帰路に就く駆逐艦エクスプレスらと遭遇した。エクスプレスは戦闘が終了したことを伝えた。アメリカ駆逐艦部隊は北上を続け、漂流者の捜索を行ったが発見できなかった。

この海戦の結果、インド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。しかし、残存艦はスラバヤ(ジャワ島)に後退してABDA艦隊を編成し、1月24日にはアメリカ駆逐艦部隊による攻撃(バリクパパン沖海戦)でボルネオ島上陸部隊が妨害を受けるなど予断は許されない状況であった。

当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは著書の中でマレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している。

影響
既述の通り「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった。これを戦訓として、各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を、改めて大幅に増強した(実質的きっかけを作った日本海軍は逆にこの点で大きく立ち遅れた)。

しかしながら、これはイギリス側に航空機の支援が無いという特異な状況によるものであった。航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、その状況において航空機が戦艦を沈めるのは極めて困難である。その後の海戦(レイテ沖海戦など)において、それが明らかとなった。

この海戦以後で作戦行動中の戦艦を航空機だけで沈めた戦例は、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和(1945年4月7日)を撃沈した例や、これまた大多数の航空機をもって武蔵(1944年10月24日)を撃沈した戦闘、この2例しかない。作戦行動中の戦艦を初めとする大型艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた(戦艦武蔵の撃沈の際も多数の航空爆弾、航空魚雷を使用。詳しくは戦艦武蔵の項目へ)。もうひとつ、イタリア戦艦ローマがドイツ軍の特殊爆弾「フリッツX」によって撃沈された戦闘(1943年9月9日)も存在するが、これは戦艦ローマが連合軍に降伏しようとしていた状況であり、本当の意味で作戦行動中とは言い難い。

この海戦では猛威を振るった日本海軍の基地航空隊による艦船攻撃の限界も、海戦直後に早くも表れた。基地航空隊は蘭印侵攻作戦にも参加したが、1942年2月4日に起こったジャワ沖海戦では、訓練不足や魚雷の供給が遅れたこともあって、水平爆撃しかできなかった。動きが鈍重な陸上機による水平爆撃だけでは、連合軍艦隊に極めて軽微な損害を与えるにとどまり、これを取り逃がしてしまった。また、艦隊より速度の遅い輸送船団攻撃ですら満足な戦果をおさめられず、1942年2月27日に撃沈した米水上機母艦ラングレー(米海軍初の航空母艦を改造)を除けば大型艦を撃沈することはなかった。その後、1943年1月29日のレンネル島沖海戦の頃までは辛うじて戦果を挙げる事があったものの、次第に連合国側に完全に制空権を握られ、日本側の損害が激増するようになった。これらの経過から、大型の陸上機による艦船攻撃には、多数の攻撃機と、雷装機または命中率の高い爆撃法、制空権の確保が必要であると示されたと言える。